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神々の姿 [ふくもの論]

最近、神話や神道に関係するマンガ、アニメが人気のようです。そのなかで神々がどう描かれているのか、これまでの描き方と違う点はあるのか、という点がわたしの現在の研究関心の一つです。
大学の授業でも、これまで神話を自分なりに解釈し、描く学生が何人かいました。
そのなかで、これは、という作品を二つをほど紹介します。

最初は、2012年の授業を履修した学生の作品。
あまてらす20001.jpg

「アマテラスのカワイイところに注目し、それを表現したい」と言っていました。
たしかに、カワイイ。

次は、2013年の学生の作品。
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この絵、とても好きです。
あたたかい感じもします。
古事記の内容を踏まえたヤマタノオロチ退治の場面になっています。
この絵で、日本神話の絵本が作れたらいいな、なんて思ってしまいます。

最後は、脱線しますが、これも新しい解釈の「アマテラス」です。
amaterasu.jpg
坂東玉三郎『アマテラス』
すばらしかったです。

アマテラスとスサノオの対立は、布をさまざまに変化させて表現されているのが印象的でした。
規範的で秩序を守ろうとするアマテラスと、それを破壊するスサノオのあり余るエネルギー。
鼓童の太鼓にのせたアメノウズメの踊りは、「槽ふせて、踏み轟こし」(『古事記』)とは、こういう感じなんだろうなと思わせるものでした。
もう一度みたいです。
東京では終わりましたが、10月には京都・南座での公演があります。

神々の現代的諸相、比較してみると面白いですね。

フランスで神道入門 [ふくもの論]

いま、フランスのトゥールーズ大学(Université de Toulouse - Le Mirail )にきています。2月の終わりからもう3週間が経ちました。
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大学では主に今の日本の神道を中心とする宗教についてお話しています。先日は「神道入門」の授業をしました。
授業は2時間ですが、「日本人と神」という話から「神社の中にあるもの」まで、あれこれ話すとあっという間です。その後学生からもたくさんの質問がありました。多くの学生が神道に興味を持っていてびっくり。
こんな質問がありました。
「なぜ手水のときに『口』を清めるのか」
「狛犬はなぜ獅子なのに犬というのか」
「巫女になるにはどうしたらいいのか」
「神社で働くには、どうやって求人をみつけるのか」
などなど、不勉強でうまく答えられないものも多く反省しきりです。
授業の後は、日本から持っていった巫女の装束を希望者に着てもらうことにしました。それが、もう次から次へとやってきて、10名くらいを巫女にしたでしょうか。
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やっぱり一度は着てみたいですよね。

神話さんぽ③ [ふくもの論]

あけましておめでとうございます
今年はもっと頻繁に更新できるよう頑張ります。

さて、初詣はどちらにいらっしゃいましたか?
今年のお正月はお天気も良かったので、出かけた方も多いのではないでしょうか。

私は、大阪松竹座に歌舞伎を見に行ったついでに、京都の八坂神社にお参りしてきました。
八坂神社.jpg

八坂神社というと、祇園祭で有名です。いまでも「祇園さん」とも呼ばれることが多いように、もともとはこの神社は祇園神社、祇園社と呼ばれていました。八坂神社という名前は明治以降のことです。
考えてみれば、「祇園」とは、平家物語の冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という一文からもわかるように仏教用語です。

かつてブッダに帰依したスダッタという富豪がジェーダ太子(祇陀太子)の土地を寄進したいと思い、太子に願い出ます。太子は断りますが、あまりにスダッタが熱心に頼むので、「そんなに欲しいのだったら、欲しいだけの土地に金貨を敷き詰めたらその分だけ譲ろう」といいます。スダッタは言われたとおりに金貨を敷き詰め、その姿に驚いた太子は、土地を譲り、みずからもまた、寄進をしました。そうしてジェーダ太子の土地に精舎(修行のための場)が作られ、そこが祇陀園、略して祇園と呼ばれるようになります。

その祇園の守り神とされているのが牛頭天王という神です。神仏習合のなかでスサノオと同じ神であると考えられるようになりました。
そしてその神は、「備後国風土記」逸文に伝えられる神話から、疫病の神として信仰をあつめていくことになります。

その神話とは次のようなものです。

あるとき武塔神が、南の海の神の娘のもとに出かけようとし、日が暮れる。そこに蘇民将来という貧しい人と、その弟で富裕な巨旦将来が住んでいたので、宿を借りようとすると、富裕な弟は貸さず、貧しい蘇民将来は貸し、貧しいながらも心づくしの接待をした。
数年経ったのち、神はその家に立ち寄り、「わたしは宿を貸さなかった弟に報いを与えようと思うが、その家にお前の子孫はいるか」と問う。蘇民将来は、「私の娘が妻となっております」と答えると、神は「茅の輪」を腰につけさせるように言う。言われたとおりにすると、その晩、弟の一家は茅の輪をつけた娘一人を残して皆滅んだ。そしてその神は「自分はスサノオである。後に疫病が流行ったときは、蘇民将来の子孫といい、茅の輪を腰につければその者は免れるだろう」と言った。

この神話から、六月の茅の輪くぐりや茅の輪のお守りなどが生まれることになります。
そして平安時代、都で疫病がたびたび流行ったため、この神を今の祇園に祀り、無病息災を願ったのが「祇園さん」のはじまりです。

都の人々は祇園さんに無病息災を願い、蘇民将来の子孫と言い、茅の輪をつけていたんですね。

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茅の輪のお守りにも「蘇民将来子孫也」と記されています。このお守りは玄関などに飾るとよいそうです。
今年一年も、元気で過ごせますように。

神話さんぽ② [ふくもの論]

 前回に引き続き、神功皇后関係の神社をご紹介します。
博多湾の北部に、かの金印で有名な志賀島があります。島といっても「海の中道」で本土とつながっていますが、やはり海路が便利なようです。

 この志賀島、『筑前国風土記逸文』によると、神功皇后(気長足姫尊)が、新羅に出陣するためにこの島に船をとめたところ、火を持ってきた大浜と小浜が「打昇の浜」(海の中道の浜辺のあたり)と志賀島はつながっていていると報告したので、「近の島(ちかのしま)」と呼ばれることとなり、それが訛って「資珂の嶋(志賀島)」となったそうです。

 この志賀島に志賀海神社があります。小さな社ですが、海を見渡すことができる気持ちのいい場所にあります。

(下)遙拝所の向こうに海が広がります。
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現在の祭神は、底津綿津見神、仲津綿津見神、表津綿津見神という海神ですが、かつては安曇磯良という名の神を祀っていたとされています。

(下)志賀海神社拝殿
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 『八幡愚童訓』や『八幡宮御縁起』などの八幡神の縁起や『太平記』によると、この神は、神功皇后が新羅征討をするときに、竜宮にある旱珠満珠を持ってきて手助けをしたといいます。しかし、この安曇磯良は、長い間海中にいたために、顔や体に牡蠣などの貝や海藻が張り付いた醜い姿をしていることを恥じ、人前に出てこなかったため、舞好きな磯良のために「細男(せいのう)」という舞で呼び寄せたところ、顔を布で覆い、亀に乗ってやってきて、ともに踊ったそうです。

 境内には、乗ってきた亀が石になった亀石もあります。

(下)亀石
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 貝などがついた醜い海の神というと、ギリシア神話の海の神グラウコスが浮かびます。プラトンによると、グラウコスも貝殻や海草、岩が付着して体の一部になってしまった(『国家』)などと表現されます。醜い姿のため、美女スキュラに拒絶されますが、予言の力を持つ神でもあります。安曇磯良とグラウコス、海の神の醜さについては、一度深く考えてみたいテーマです。

参考:井上 順孝 (監修), 平藤 喜久子, 島田 潔, 稲田 智宏 『すぐわかる日本の神社―『古事記』『日本書紀』で読み解く』東京美術

神話さんぽ① [ふくもの論]

古事記や日本書紀の舞台というと、出雲や宮崎、奈良、伊勢のあたりを思い浮かべる方が多いと思います。
たしかに、神代で舞台となるのはこうした土地ですが、人代になるとさまざまな場所が登場してきます。
たとえば福岡県。神話とゆかりの場所というと宗像大社があります。人の時代では、とくに神功皇后ゆかりの場所がいくつかあります。
今回はそのなかから香椎宮を紹介したいと思います。
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神功皇后は、第十四代仲哀天皇(ヤマトタケルの御子)の皇后です。天皇と皇后は、天皇に従わない熊襲を平定するため、現在の福岡県福岡市にやってきます。そのとき滞在していたのが香椎宮です。いまもこの名の神社があります。
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現在の本殿は1801年の再建で、香椎造という独特の建築様式となっています。
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ここで天皇は、神功皇后に神がかりをさせ、神意を問います。すると神は、熊襲ではなく西の方にある、金銀豊かな国へ向かうよう告げます。ところが高いところから西の方をみても、海ばかりで陸地など見えないので、天皇は「偽りをいう神だ」といって信じます。そのため、神の怒りを買い、天皇はその場で亡くなります。
その事件の舞台となったところは、香椎宮の少し裏手にあります。
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そのとき神功皇后のお腹には御子がいましたが、皇后はみずから軍の指揮を執り、神が教えるままに西の方の国(新羅)を攻め、得ることに成功します。

この神功皇后は、明治期以降日本の植民地政策の展開のなかで、日本最初の紙幣の肖像に使用されるなど、ナショナリズム昂揚の一翼を担わされてしまいますが、記紀が描く物語そのものは、とても不思議で魅力的です。
夫を失い、妊娠中にもかかわらず、出産を遅らせながら仕事に邁進。出産したあとは、反抗する夫の子供たち(自分の子ではない)とも戦います。
シャーマンの才があり、神がかりもします。
神話のなかの天照大神の性格を受け継いでいるところもあり、歴史的な伝承というよりは神話的な伝承でしょう。

こちらは神功皇后が新羅から帰った後、杉の枝を土に刺し、国家の安寧を願い、それが成長した杉の木だといわれています。
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タグ:神話 香椎宮

スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」 [ふくもの論]

先日、四代目市川猿之助襲名披露の六月大歌舞伎に行ってきました!
夜の部の演目はスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」。
ヤマトタケルといえば、古事記、日本書紀に登場する英雄です。
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上演開始後、しばらくは説明的な台詞に違和感も感じましたが、進むにつれてどんどん物語のなかに引き込まれていきました。
終了後、なかなか昂揚感が冷めず、さまざまな思いがわき上がりましたが、ここでは古事記との関わりで、印象に残った点を一つだけご紹介します。

古事記によると、ヤマトタケル(元の名はオウスノミコト)は、父である景行天皇に、兄のオオウスノミコトを朝食の席に呼ぶよう命じられます。ヤマトタケルは、兄を待ち構えてとらえると、なんと手足を折って、つつんで投げ捨ててしまいます。天皇は、皇子のそんな荒々しさを恐れ、クマソタケルの征伐を命じることになります。
このエピソードによくあらわれているように、ヤマトタケルは荒々しく力強い男性です。父である景行天皇も、身長が一丈二寸(古代は一尺18㎝、一丈は十尺、十寸が一尺・なので約183㎝)、膝下は四尺一寸(約73㎝)だったとあります。
今でこそ180㎝の男性は珍しくありませんが、古代はいまよりもずっと平均身長が低いので、180㎝もあれば巨人というイメージです(膝下70㎝超もビックリ)。
そんなことからも息子のヤマトタケルについても大きく力強いイメージがありました。

そのヤマトタケルが、クマソタケルを討ちにいくときに、女装をします。伊勢神宮の斎宮である叔母の衣装を身につけて、髪型も少女のように結って宴に入っていくと、クマソタケル兄弟は、その少女(ヤマトタケル)を気に入り、兄弟の間に座らせます。ヤマトタケルはそのときに隙を突いて剣を刺すことになります。

兄の手足を素手でへし折るような男性が、はたして少女に変装してばれないものだろうか。物語とはいえ、不思議だなぁと感じていました。

ちなみに、やはり同じ梅原猛原作の「ヤマトタケル」の漫画版である山岸涼子『ヤマトタケル』(角川書店)では、ヤマトタケルではなく、従者の少年タケヒコが女装をします。
映画『日本誕生』(東宝、1959年)では、ヤマトタケル役の三船敏郎が、そのまま女装し、激しいにらみをきかせて近づきます。かなり不自然な場面になっています。

猿之助版になると、それが、見事に一つの人物として統合されていて驚きました。
力強いヤマトタケル。女装をして男性を惑わすヤマトタケル。
この二つが矛盾せずに表現できるのは、歌舞伎という表現形態だからこそかもしれません。
ヤマトタケルは、歌舞伎にぴったりの素材だったことに気づかされました。

女装する英雄というと、ヤマトタケル以外にも、ギリシア神話のアキレウスや北欧神話のトールがいます。どちらもそれぞれの神話を代表するような英雄です。アキレウスはトロイア戦争に参加する前、宮殿で女性たちに混じって暮らし、見分けがつかないくらいに同化します。トールは、なんと花嫁衣装を着て巨人との結婚式に臨みます。

人類学では、成長する過程、つまり次のステップへと移行の途上の状態を、リミナリティといいます。
女装(性的倒錯)を経験するというのは、まさに男性とも女性ともつかない姿になることで、英雄が成長の過程にあることを意味するといえます。
オウスノミコトからヤマトタケルと名を変えるのもこの場面のあとです。「女装」はヤマトタケルが英雄になるために必要なプロセスかもしれません。
歌舞伎をみて、あらためて「英雄の女装」についても考えさせられました。

最後に、今回の「ヤマトタケル」では、女装をして踊りますが、それは天照大御神が閉じこもった天の岩戸の前で踊るアメノウズメを彷彿とさせるものでした。ぜひ猿之助のアメノウズメも見てみたいものです。

あまりに感動したので、来月も新橋演舞場、行ってきます!

130年目のKojiki [ふくもの論]

今年 2012年は、古事記ができて1300年目にあたります。
記念の年ということで、書店にも古事記を特集した雑誌や単行本が多く並んでいます。

あまり注目されていないことですが、今年は古事記にとって、別の意味でも記念の年にあたります。
それは、古事記の英語訳がはじめて世に現れてから130年目ということです。

いまから130年前の1882年、"Transactions of the Asiatic Society of Japan" という雑誌の Vol.10に補遺として古事記の英訳が掲載されました(書籍としての刊行は翌1883年)。
翻訳したのはBasil Hall Chamberlain (1850-1935)というイギリス人。海軍兵学寮の教師を経て、帝国大学文科大学の教授もつとめた研究者です。

当時のヨーロッパは、オリエンタリズム真っ盛り。キリスト教文明以外のさまざまな文化への関心が高まり、研究も進められていた時代でした。
そんななか、開国したばかりの日本にも熱い視線が注がれていたようです。チェンバレンの古事記も、大いに注目を集めたのではないでしょうか。

そんなチェンバレンの古事記の翻訳、どんなものなのか少し引用してみます。

[イザナキ・イザナミの結婚の場面]
Having descended from Heaven onto this island, they saw to the erection of an heavenly august pillar, they saw to the erection of a hall of eight fathoms. Tunc quaesivit [Augustus Mas-Qui-Invitat] a minore sorore Augusta Femina-Qui-Invitat: "Tuum corpus quo in modo factum est?" Respondit dicens: "Meum corpus crescens crevit, sed est una pars quae non crevit continua." Tunc dixit Augustus Mas-Qui-Invitat: "Meum corpus crescens crevit, sed est una pars quae crevit superflua. Ergo an bonum erit ut hanc corporis mei partem quae crevit superflua in tui corporis partem quae non crevit continua inseram, et regiones procreem?" Augusta Femina-Quae-Invitat respondit dicens: "Bonum erit.".

え・・・っと、英語のはず・・・ですが。
たしかに最初のほうは英語ですが、後半はなんとラテン語になっています。ここは、イザナキとイザナミが互いの体の構造の違い(男と女の違い)を言い合い、性交する場面です。チェンバレンは、この場面を「不道徳」と考え、ラテン語で翻訳しました。

19世紀のイギリス、ヴィクトリア朝といえば、とても禁欲的な時代。貞淑さなどがよしとされた時代です。古事記はちょっと刺激が強かったのでしょうか。

それにしても、なぜにラテン語?と思われるかもしれません。
おそらく、ラテン語を読解できるくらいの教養人であれば、刺激の強い文章でも、自分を抑えられ(?)、悪い影響を受けないと考えたのだろうと思います。

130年前のKojikiから、130年前のイギリス文化が見えてくるというのも、面白いですね。

ラテン語の部分は、ちょっと読むのが大変ですが、そのほかのところはほぼ古事記を直訳したものとなっています。江戸時代の国学も学んで翻訳をしたようで、その内容はいまでも十分通用するものです。
著作権も切れており、ネットや再版された本など、手軽に入手できるので、よかったらぜひ、探してみて下さい。
チェンバレン古事記.jpg


『怪談』で有名な小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、チェンバレンの古事記を手に、出雲の神社めぐりをしています。




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